君の隣にいる、資格
074:とても儚いものかとても美しいもの、そのどちらかになりたい
葛は庭の足元で揺れる花を見ていた。百合とも菫ともつかぬそれは雑種なのか判別しがたい。普段ならば種類など気にせず手折ってはいけるのだが、この時の葛は茫洋とくだらないことに熱中していたかった。揺れる花は白い。百合に白はあったかどうだったろう、菫に白はあったかどうだったろう。切り花にしてよいかどうか、購入して植えたわけでもない雑草を前に葛は一点から目を背け続けた。生け垣は密に茂り蔦さえ這った。喬木の背もまだそんなに高くない。購入して日が浅い所為かこの家の呼吸と葛の呼吸は時折食い違う。はっきりと言ってしまえば飛行機の中に置き去りにした葵が文句を言ってくるのを待つために葛は生き続けた。文句でも罵声でもいい。生きていてくれてその知らせが届いたら死のうと思っていたのだ。だから葛は写真館を畳む際に私物はほとんど処分した。この家にあるのは使いこまれた品々ではなく大量生産された安物ばかりだ。それでも鋏と手帳とカメラに現像用品一式は処分できなかった。未練だな、と自嘲する。今は事実上放逐された状態にある裏稼業に雇われた頃は学校で賜った大刀を手放すことさえ厭わなかったというのに。
「葛ちゃん、その花なら切ってもいいと思うよ?」
唐突にかけられた声に振り向けば葵が縁側に俯せて転がっていた。肘を立てて顎を乗せる、こまっしゃくれた姿勢だが妙に様になっている。ぼさぼさに見える肉桂色の短髪と揃いの肉桂色の双眸は瞳孔や虹彩が見えそうなほど薄い色をしている。一筆だけ筆で刷いたかのようにぴんと長い睫毛を瞬かせて、頑固な性質を示す眉筋は太い。それでも通った鼻梁や微笑んだような口元が男くささを消している。無駄な熱量や発熱とは無縁の清涼とした清々さがある。体の線も細く筋肉は不揃いについているのは肉体労働に従事する期間がまちまちだからだ。
「あおい」
そう、葵は葛を見つけてくれたのだ。そして帰ってきてくれて一緒に暮らしたいと言うからこうして二人で暮らしているのに。葛は時折一人住まいであった頃の寂寥に囚われる。何が原因なのかは不明だ。葵がいるのにいないような気がする。実際に留守にしている時もあるから葛一人の錯覚だと割り切れぬ後味の悪さが残るばかりだ。
「その花見ながら一時間くらいたってるぜ? そんなに悩むこと? あ、あれだろ、ここで切り取ったら次に生えるか判んないとかそういう心配だろ!」
ポンと一人で手を打って葵がびっしと指を立てた。どうだと言わんばかりのそれに葛は沈黙で応えた。シンとした空気が流れて葵の自信が揺らぎだす。
「え、ち、ちがう?」
だったら何、と葵は媚びるように訊く。これだ、と葛は思った。飛行機での一件を挟んで葵は変わった。平たく言えば媚びる。以前ならば衝突さえも厭わず自分の意志や意見を押しだしてきた葵が譲歩を覚えていた。常に葛に問う。違う? いいかな? だめ? 何でも訊く。果ては食事当番の際の献立さえ問われて腹にすえかねた葛が食事は家にいることの多い俺がやると言いだしたほどだ。
葛の漆黒の髪が夕やみに蕩けていく。短く整えられた髪は額もあらわに調えられていて、それは葛の身形と纏う空気と合致した。黒曜石の双眸が葵を見据える。脚元の花を見つめていた時よりずっと、強く。鋏を握る手がぎりりと鳴った。
「…葵。何故媚びる。何が…何がお前の自負をそこまで砕いた」
葵の表情がすっと抜けた。微笑みの消えた口元は引き締まって唇が案外ふくよかであることを知らせる。ぷッくりとした唇はやわらかそうで親しみが持てるのに葵の肉桂色の双眸は零下の凍りを見せていた。寝そべっていた葵がすっと立ち上がる。洋装の似合う四肢だ。適度に細く長い。秒針まで時を刻む腕時計は彼の手首でカチコチと固い音を鳴らした。だがすぐに葵はへらりと笑う。腕時計にはすがるように手を這わせて肩をすくめる。
「…べ、別に媚びてなんか」
「夕飯はあれが喰いたいそれが喰いたいと文句をつけていた者の台詞とは思えんな」
「オレだって大人になったんだよ! そう、大人になったの。葛ちゃんの好みに合わせるくらい」
「嬉しくない」
ぐぅ、と葵が黙る。葛は自身が出汁に使われることを最も嫌う。葛はくるりと背を向けた。
「今晩の夕食はお前が献立から作れ。…――出来るまで、待ってやる」
ぱちり、と葛は品種も判らない白い花に鋏を入れた。葵の顔は見れなかった。見たくなかった。
剣山の針を花留で隠し星梅の散った大皿を床の間へ活ける。そのまま食膳が整うのを待つつもりだった。すきっぱらを抱えての長丁場も覚悟の上だ。飛行機内でのやり取りが思い出される。あの時ほど、己の特殊能力の制限を恨んだことはなかった。葵もつれて飛ぶべきだったのだ。だが葵は頑として譲らなかった。それが三好葵だったからだ。葵らしいと言えば葵らしい。その、命がかかったやり取りでさえ諍いを厭わず自己を主張した葵が、何かにつけて葛の機嫌を窺うのが葛は嫌なのだ。お前はそんなんじゃなかっただろう。だがそれさえも葛が勝手に抱いていた幻想で、葵の本質は現状なのかもしれない。そう思うと葛の思考は堂々巡りになる。そもそも葵がそこまで媚びて葛に執着する理由が葛には判らない。
床の間に皿を据えて矯めつ眇めつしてから部屋へ戻ると食膳が整えられ、葵が正座して俯いていた。もう夜半であると言うのに部屋の明かりも卓上灯も点けていない。雨戸を閉てるから明かりをつけるようにと言ったが返事がない。葵の細い肩が震えていた。葛は硝子戸を開いて月明かりを部屋へ差した。欄間や長押の影が奇妙に歪んで壁に映る。
「いただきます」
手探りで席へ着いた葛はいつも通りに挨拶をしてから箸をつけた。懐かしい大陸料理があるかと思えば手間の要る煮物があったりして無国籍な食膳だ。美味いとも不味いとも言わずに葛は黙々と箸を進めた。葵は動かない。細い肩を震わせながら時折その長い腕が動いた。ずず、とすするような音とぐすぐすとぐずるような音がする。それについても葛は言及せず淡々と食事を進めた。
煮物へ箸をつけるたびに葵が何か言おうとして果たさない。毒でも盛ったかと思いながら葛は美味しくいただいている。家へ忍んでくる猫を猫嫌いは特製の餌で始末すると言う。食事に混ぜられた毒は遅効性だから人知れず儚む。葛は葵に献立を任せるたびにそれを思い出す。それだけのことはしたと、責は負う心算だ。
「葛……ごめん、煮物さ、ちょっと…不味いよ。わざとじゃないんだけど、その、あのさ」
「はっきり言え」
手を休めて葛がきっぱりと引導を渡す。葵はボロボロ泣いて詫びた。
「ごめん、作ってる途中で、オレなんてバカなんだろって思ったら泣けてきちゃって、涙が………入っちゃったかも…って…」
葛は返事をせずに調子も狂わせず食事を再開した。煮物にも箸をつける。
「ごめん、汚いよ、作り直すから」
煮物を下げようとする手を払う。葵は傷ついたように潤みきって燐光を放つ肉桂の双眸を瞬かせた。
「不味くないからかまわん。材料が無駄だ。良いからお前も食べろ」
声をあげて葵が泣いた。慟哭と言っていいほど激しいそれを聞きながら葛が頤を動かした。
「葛ちゃん、ごめん…でも、葛の所為でもあるんだよ」
涙に濡れた頬が月白に煌めいた。葵はにっこりとほほ笑んだ。眦や目淵から涙が幾筋も伝い、洟まで垂らしながら、それでも葛は葵の泣き顔に嫌悪さえ抱かなかった。
「オレは、儚いか美しいか、どちらでもないからいつか、葛の隣を追われるような気がして。オレが綺麗じゃないから。美しくなんかないし、儚いなんて言葉とも無縁だったよ。だから美しくて儚いように綺麗な葛の隣に相応しくないって誰かに言われるのが怖く、て。葛に言われそうで、怖くて、怖かった…こわかった、んだ…!」
ぱちり、と音を立てて葛が箸を置いた。食膳は葵の分を残してすっかり片付いている。
「ごちそうさま。美味かった」
葛は目線を端から葵の顔へ据えた。月白の中で涙に濡れた頬は雲母引きの絹であり充血した紅い眼は紅玉のように煌めいた。それでいて髪や双眸の肉桂色は透けるほどに色が薄い。
「お前の方がよっぽど儚いようだし美しいと思うがな、俺は」
葛にとっては葵こそ煌めきの象徴だった。物おじせず気高く誇り高く。それなりに身分がある者の落胤であるということさえ話してくれたあけっぴろげで人を信じるこの男を、葛はどうしたら良いか判らなかったが嫌いではなかった。だから葛が、葵を置き去りにした始末をつけるために大陸へとどまり続けたのだから。
「オレは葛が好きなんだよ。だから葛の傍にいる理由が欲しかったんだよ。葛は綺麗だから隣にいるには理由がいるんだよ」
「いらん、そんなもの。俺は俺の隣に誰が居るかくらい自分で極める」
葛はすっぱりと引導を渡す。
「そうなの? でもオレそんなこと全然…だって葛は特別だから。好きだから! 離れたくなかった。隣にいてほしかった、隣に居たかった、だから。だから、誰にも文句を言われない理由が欲しくて、葛に好いてもらえたら、そうしたらって思って、オレ…媚びてたんだよ…」
葛の目が細まる。口角が吊りあがった。ふわり、と葛が微笑んだ。葵が吊られてへらりと笑う。
「馬鹿が」
ひく、と葵の口元が引き攣る。
「それを言い出せば俺の方こそお前の隣にいる理由を失ってしまう。俺は、あの飛行機の中でお前を見捨てて逃げたんだ、責められるべきは俺であり本来媚を売って機嫌を窺わねばならんのは俺の方だ…」
「そんなこと気にしてたの? あれはオレの意志で極めた事なんだから葛が気にすることないよ」
ふっと葛が吹きだした。そのまま、声を立てて嗤う。それは嗤いであり笑いだった。
「葵、俺達は互いに同じことを言っている。お互いに機嫌を損ねたら隣にいる資格はないと思っていたと言っている。そんな手探りの状態は、俺はごめんだ」
だからな、俺はお前を赦すよ。
だから、俺のこともお前に赦してほしい。
「都合がいいことを言っている自覚はある。嫌ならばはねつけろ。これが俺の出した譲歩案だ」
きっぱりと言ってから葛は一言も発さない。葵は頬を濡らしたまま茫然としている。
「…――いい、の……? オレ、葛の隣にいて、いいの…?」
葛は笑いもせずに言い放つ。
「俺はお前を追いだす心算はないし、隣にいてほしいと思っている!」
ほら早く飯を食え、冷めてしまっただろうが。母親のように小言を言う葛に葵が泣き笑った。涙を溢れさせながら声を立てて笑う。嬉しげな声であったから葛も殊更責めなかった。嬉しい時にも涙が出るのだと葛は葵から教えてもらったのだ。
「あぁ…――オレ、馬鹿だね。こんな馬鹿でいいの? また訊いちゃったけどこれは赦して。ホントにこんなオレだけど、それでも、いいの?」
「二度は言わん」
俺はお前を愛している!
月白の明かりの中でさえ葛の白皙の美貌が紅潮しているのが判る。それを見て葵が涙や洟を拭いながら咽び泣いた。
「あぁ――だから…――だからオレ、葛が好きだよ。愛してる。葛の傍に居たいんだ。そんなこと言ってくれる葛だからオレ、お前のこと、本当に本当に大好きだよ」
「…お前ばかりが責められるべき咎などない。だから、もう媚びるな。いつも通りのお前に戻れ。俺の言うことをちっとも聞かん無鉄砲な三好葵にな」
葵の目が床の間へ向けられた。襖を挟んでいるが開き切って一間のようになっているから葛が活けた花が葵の位置からでも見えるのだろう。
「葛の生ける花って綺麗だよね。オレ、母さんからいろんなこと教わったけど華道は教わんなかったなぁ。でもそれでいいや。葛の生ける花が見れるし、花を活けてる時のしゃんとした葛の綺麗な姿見れるから。葛って案外器用だね」
「集中力を養うために学んだ程度だからほんのかじった程度だぞ。本職はもっと上手い」
「葛の生ける花だから良いんだよ。葛っぽいじゃん。性格でてるよ、あれ」
へへへ、と葵が笑う。葛も安堵したように引き締めていた口元を弛めた。その葛の微笑を葵は本当に美しいってこういうこと、と心中で思った。口には出さない。葛は己が美しいとは思っていない、だからこそ美しい。
「葛、ありがとう。大好き、愛してるよ」
「……葵、俺も、だ」
葵は大げさな動作で食事を始めた。飯茶碗の上にぽたた、と塩辛い滴が滴った。
《了》